Sohey Sugihara (Dancer)

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Sohey Sugihara


In 2003 being 16 years of age, began street dancing in earnest, and became completely absorbed in dancing. Made dance units and teams on his own, and based his activities in his hometown Asahikawa and Sapporo, Hokkaido. After graduating from his high school in 2007, he went to the US by himself, spent all his hours on practices, dancing and learning English. In 2008, his abilities were recognized by Andre Fuentes, who was Britney’s choreographer at the time. He had then returned to Japan as Britney’s assistant. In 2010, obtained the long awaited “artist visa” which allows him to work as a dancer in the US. Thereafter, he worked with various artists (Justin Bieber, Jason Deruro, Usher and so on), appears on TV programs and TV commercials widely. In 2011, flew around the world including North America, Europe, the Middle East and South America in Britney’s world tour. In 2012, Appeared on the “America’s Best Dance Crew”, which is an American TV program. Then fascinated all of America with his unique styles and choreography, and won fifth prize beautifully. Moreover, he has been providing workshops as a dance teacher while dancing all over the world. In 2014, was selected as Britney’s backup dancer, and is currently participating in “Piece of Me”, which is taking place in Las Vegas as well as a long run show until the end of next year. He continues to fascinate fans that come from countries all over the world.

2003年、16歳の時に本格的にストリートダンスを始め、完全にその世界にのめりこむ。ユニット、チームを自らつくり、主に地元旭川や札幌を拠点に活動。高校卒業後の2007年、単身渡米してからは、年中快晴のロサンゼルスにてダンスと英語の修行に明け暮れる。2008年、当時ブリトニー•スピアーズの振付師だったアンドレ・フエンテスに実力を認められ、ブリトニー本人のアシスタントとして日本に凱旋帰国。2010年、アメリカで働くことができる念願の“アーティスト・ビザ”を取得。かつての夢だったジャネット・ジャクソンのバックダンサーとして起用される。それ以降も、さまざまなアーティスト(ジャスティン・ビーバー、ジェイソン・デルーロ、アッシャー等)、テレビ番組、TVCMなど幅広く活動。2011年にはブリトニーのワールド・ツアーで北米、ヨーロッパ、中東、南米と世界中を回る。2012年、ダンスクルー Fanny Pak (ファニー・パック)の一員として アメリカのダンス番組 “America’s Best Dance Crew” に出演。独特のスタイルと振りつけで全米を魅了し、見事5位に入賞する。その他にダンス講師としても世界中でワークショップを展開するなど、精力的に活動している。2014年現在は、再びブリトニーのバックダンサーに抜擢され、ラスベガスにて行われているショー、“Piece Of Me” に参加。来年末までのロングランで、世界各国から訪れるファンを魅了中。


What Inspired You To Dance?

I can recall couple of opportunities that influenced me to dance. One of which was a popular idol group at the time. The other was Janet Jackson’s video while in high school which, I can remember was what got me fascinated in American showbiz.

How Did You Get From Asahikawa, Japan, To LA, USA?

I immigrated to LA after I worked as a part-timer for a year in my hometown Asahikawa, Hokkaido. I spent all my time dancing those days while attending a language school. It was very hard to get an O-1 visa to work as a professional dancer. I hired a lawyer, collected documents and so on. I faced difficulties many times, and thought that I might give up. But, looking back now, I’m glad I kept on trying and never gave up.

Can You Tell Me About Your Works?

My first job after I got the visa was as Janet Jackson’s backup dancer, a dream come true! I can’t believe it even now, but I had an extraordinary time. Then Britney Spear’s world tour was decided which, I had been involved as an assistant, so this was my second dream came true. During such big works, I also do small works. For example, music videos, new artists’ works, teaching dance and so on. I also participate in a dance crew called Fanny Pak, and performed in America’s Best Dance Crew, which is an American TV program. Now I’m in Britney’s shows (Piece of Me) in Vegas. The contract is until the end of next year but I’m happy to do such attractive works in this industry, which have very few stable long-term works.


Can You Tell Me About Relations with Canada?

When I’m on tour, I’m able to go to different places everyday and experience totally different atmospheres, people, foods and so on. Walking around the cities vaguely alone on my free time is my favorite, fun and real pleasure of tours as well. The last show for Britney’s tour was in Toronto and we had a video shooting as well. The image I have of Toronto is neat and tidy. I remember modern buildings and historical buildings co-existing together in harmony, and felt something similar to a NY ambience. At that time, my friend from my hometown Asahikawa was studying abroad in Toronto and showed me around town. I was impressed at how Asian communities were firmly established. I also enjoyed the European feel of Montreal, and the view of the ocean from Vancouver which, was like a scene from Hayao Miyazaki’s “Kiki’s Delivery Service”.

What Is A Meaning To Challenge Overseas As A Japanese Dancer?

I’ve been in a foreign country for a long time, so I’m getting to recognize the beauty of worlds, Japan and abroad. Japanese people are really stoical, but it’s difficult to have free ideas if we don’t take it easy sometimes. I believe it’s meaningless if we cannot enjoy living that moment. After coming to a foreign country, I learned an importance of “laziness” in a good way, and staying optimistic. I think I’m adequate to that as well. I’m always trying hard, aiming at bringing people who are seeing my dance, to happiness as much as I can, and feeling my own happiness by doing as much as I can!

To Get Your Favorite Job, What Do You Do?

As I said before, the first important thing to keep in mind is to think and work on how you can make yourself happy and love yourself as much as possible. Then it is to clearly set your goals and write them down on paper!! (LOL!) As you breakdown what is necessary to do in order to achieve your final goal, you will come to realize what you must do at this moment. This is how I have come to achieve my dreams.

To People Who Are Going To Challenge Abroad, Please Your Message

We are living in a world where borders seem much closer, but there are never-ending unhappy conflicts that still continue among countries. On this earth, which is filled with people who have different ways of thinking and different backgrounds, I believe we should be the only one universal language. I continue to hope the world will be full of love!



きっかけは色々あって、当時人気だったアイドルグループに憧れたのがまずひとつ。そして中学生の時にJanet Jacksonのビデオを見たのが、アメリカのショービズに憧れるきっかけだったんだと思います。


高校を卒業してから約1年間地元旭川でフリーターを経てからダイレクトにLAに移り住みました。当時は語学留学生として学校に通いながらダンスに明け暮れていました。そこからプロのダンサーとして働くための O1ビザを取るまでの道のりがすごく大変でした。弁護士を雇ったり、書類を集めたり。何度も壁にぶつかり、もうだめなんじゃないかと思うこともあったけど、それでもあきらめず頑張ってよかったと今では思っています。


ビザを取って初めての仕事が、夢でもあったJanetのバックダンサーでした。今でも信じられないけれど、最高の時間でした。それから、前々からアシスタントとしても関わっていたBritneyのワールドツアーが決まり、2つ目の夢も叶いました。そんな大きい仕事のあいだにも小さな仕事、例えばミュージックビデオだったり、新人アーティストの仕事だったり、あとはクラスを教えたり等もしてます。ダンス・クルーのFanny Pakにも加入していて、アメリカのテレビ番組、America’s Best Dance Crew にも出演しました。そして現在はBritney のべガスでのショー(Piece of Me)をやっています。来年末までの契約で、そうゆう長期で安定した仕事はなかなかないこの業界で、そんな恵まれた仕事をできて嬉しく思っています。














Interview & Translation :Takahiro Sasahara
Born 1987. From Higashi Kagura-cho, Hokkaido. Currently living in Toronto. 1987年生まれ。北海道東神楽町出身。トロント在住。インターネット・メディアをフィールドに、国内外アーティストのインタビューなど、音楽関連記事を中心にウェブ・コンテンツを担当。Twitter:

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Photo Credit: Tai Liam Kimie Tanaka / 田中 希美絵 愛知県名古屋市生まれ。東京大学経済学部を卒業後、インド、チリ、ニューヨーク、シンガポールを移り住む。ニューヨーク大学大学院映画学科修士課程修了。前作品・短編映画『寿』は2013年のショートショートフィルムフェスティバル&アジア日本映画部門で最優秀賞等を受賞、その後も国内外の映画祭に入選・招待された。一方で、『Luv(sic) Part 6 – Uyama Hiroto Remix featuring Shing02』のミュージックビデオや、CMも手掛けている。今作品『かくれんぼ』は、母の死後、引きこもりの弟の面倒をみるはめになった兄とその弟の兄弟の絆にまつわる短編映画で、2015年のトロント国際映画祭コンペティション他、国内外の映画祭で上映されている。パリ在住。 映画『かくれんぼ』facebook ページ: トロント国際映画祭でトロントにいらっしゃっているわけですが、トロントについての印象をお伺いしたいです。 映画祭の会場と宿泊施設の往復をしているだけなので、あまり責任を持って言えないんですけど、安全だし、何でもあるし、英語が通じるし、居心地が良いなっていうのはあります。フランスと比べると、人の感じも違いますね。カナダの人は思っていることを全て口に出して言うことが多いように見えるけれど、フランス人は別に言わなくてもいいと思っている、とか。 Kimieさんの映画のストーリーや登場人物は独特で繊細な印象を受けたのですが、テーマ設定や登場人物はどのように設定されていますか?ご自身が海外で生活していることの影響はありますか? まだ人に見せているものとしては二作しか作っていないし、常にっていう訳ではないんですが、基本的にテーマはその時点で自分の内部に持っている問題ですね。登場人物は外面的には色々なインスピレーションから作り上げるんですけど、その内部と、作品のテーマに関してはその時点で自分自身が興味のあること、ですね。海外の影響の有無は作品によります。今考えている作品のうちの一つはフランスにいる日本人っていう設定で、もちろんそれは、その設定自体がフランスに住んでいるっていう環境だからこそではあるんですけど。ただ、作品のテーマというと、日本で撮る作品でも、日本に住んでいたら気がつかなかったことから生まれてきていることもあると思います。 作品を作る中で苦労したことはなんですか? 作る過程のどの瞬間も、やっているときは「これが一番大変」って思います(笑)。でも、あえて言うなら、脚本、資金集め、演出、この三つですね。脚本に関しては、プロットとしての話はいくらでも作れちゃうんですけど、その話の中に自分の言いたいことが入っているかというのが大事で、つまり簡単に言うとテーマなんですが、それを見つけるまでが大変。資金集めに関しては、今回は半分をクラウドファンディングで集めたんですが、人様が汗水垂らして働いて稼いだお金を一円でもらうっていうのは責任が重いことだし、特に日本ではあまり受け入れられてない考えだから、自分としてもそれを消化するのにも苦心しました。演出に関しては、役者さんも生き物なので、どうやったら自分の欲しいものが撮れるっていう教科書に書いたものがない分、難しいですね。でも、ありがたいことに、今のところ、常に協力してくれる人に恵まれているっていうのもあって、制作過程において、人間関係の面で嫌な思いはしたことは全くないです。ですが、作っているときは人のためではないです。妥協はしたくないし、したとしてもそれを人のせいにすべきでないと思っているので。 映画作りのきっかけと海外に出たことは関係ありますか? 海外に出たのが先ですね。大学卒業間際に、日本の外資銀行に就活していたときに、グループ面接で周りが皆英語ぺらぺらっていう状況だったんです。そのとき、初めは、「私のお父さんも駐在員さんとかだったら今頃私もぺらぺらなのにな~」って思ったんですけど、その時に、私「お父さんが…」とか言ってるけど、私もう自分で行けちゃう歳なんだって気づいて。遅いですけど(笑)。それで、入行前にインドで半年だけインターンしました。そしたら、その会社の縁もあって、入行後一年も経たずに退職して、チリに移り住んだんです。そこで働き始めた会社は、国際色豊かな職場で、日本だとチョコレートが好きだからチョコレート屋さんになるっていう訳にはいかないですけど、私の周りの人は結構高校卒業したら一年間自由にやりたいことをやってそれから初めて大学だの何だの自分の進む道を決めるっていうことを経て来てたんですね。そこで「あ、そうか、やりたいことっていうのは、やっていいんだ」って思って、それが私の場合たまたまチョコレートではなく映画だったんですけど、それを行動に移したというのが始まりですね。 やりたいことを仕事にするっていう考えについてはどう思われますか? 前置きですが、実は今私にとって映画はまだ仕事じゃなくて、だから映画に関係ないことをしてでも、どうにかしてお金稼がなきゃという状況なのですが…だんだんわかってきたことですが、私は商業的な映画には全く興味がないから、映画を撮っていきたいけど、お金を稼げるようにはならないようです。だから、今も、今後も、どうしましょうと思っています(笑)。例えばですが、アイスクリーム屋さんとかやりながら撮れるときに撮る、とか一生やっていくことになるんでしょうかね。撮れるとき、つまり作品を書くときは主に自分の内面的な問題についてなので、私の場合今のところ、初心者だからかもしれませんが、一作品にまだ時間がすごくかかる。二、三年に一本昇華させて、これだっていうふうにようやくなる程度なんです。だからと言ってどうしようもないので、今のところはその答えを見つけようと急いでもないですけどね。撮りたい物を撮って、貧乏生活を続けて、それこそ今考えている長編を撮って区切りがついたら、何かお金を稼げることをしようと思います。 やりたいことを胸の内に秘めてる人へのメッセージはありますか? 何かをやるっていうのは、何かを捨てるっていうことになると思うのね。そうじゃなくていい時と場合もあるけど、それでもそういう覚悟はしないといけないっていうのはまず一つあると思います。だから、やりたいことがあってもそれができないっていうのは、まだ他のことを捨てられていないからだと思う、例えばプライベートとか。とは言っても、プライベートは人それぞれだし、「キャリア面でやりたいことをやる=幸せになる」っていう単純なことではないと思っています。全体として何を重きにするかは人によると思うし、私は言わば『幸せ』になりたくて、プライベートとかも犠牲にしていく覚悟で映画を撮って今のところ生き始めたんですけど、それができるのは、今はたまたま私は自分以外には責任のない立場にいるから。だから私みたいなのが、色々事情のある立場の人に、簡単に、全部捨てて頑張れなんて言えないと思うんです。 でも、そういう面もありつつ、もう一方で、できないっていうのは全部頭の中にあるだけで、実は元々できないっていうことでもないと思います。まだチリに住んでいて、映画へと方向転換しようかと悶々としていたときに、誰かに聞いたことなんですけど、チリのその時の70、80歳くらいのすごくお金持ちの人が同じようなことを聞かれて、”I wish, -when I was still 50 or 60, I didn’t think I was too old to do anything.”と答えていたんです。お金持ちになっていることは数ある指標の一つに過ぎないのですが、70や80になって、すごく『成功』していた彼でも、50、60代の時にもっとやれることをやっとけば良かった、と思っている。何歳でも思った事を何でも始めるべきだ、ということなんですけど、私はそれを聞いて、そうかーと思いましたね。私自身、最近になってさらにはっきりしてきたことですが、20代、30代っていうのは、もうほんとにまだなんでもできると思います。 最後に将来の展望を聞かせて下さい。 長編を撮りたいっていうのはありますね。賞とかに入ったら次に繋がるのでいいなとは思うんですが、基本的には、そんなの関係なく、自分が納得できる物を撮りたいです。実は今、今回映画祭に出品した『かくれんぼ』の長編版を撮りたいと思っています。後は、今住んでいるフランスでちゃんと資金を集めて撮ったことがまだないから、ある意味チャレンジで、今考えている長編と短編の企画をフランスでも完成できたらいいなと思っています。この二、三年の中ではこのくらいですね。 […]

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